今日は、元メインブログ(アメブロ)の記事を題材に、「過去の扱い方を変える」というお話をしてみます。
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リンク先の記事は、メルマガ読者からいただいたコソ練の実践記録と、それに対する私の解説です。
そのなかで、非二元の真実から見た、心の仕組みについて説明しています。
一部、引用しますね。
ちなみに、ここでいう「自我」とは、「自分という個別の存在がいる」という認識のことを指します。
自我は、「自分が苦しいのは、過去の辛かった体験のせいである」と言い張ります。
自我の言い分を本気にすると、「そうだよね、だから一人でなんとかしないと…」と思っちゃったりするんですな。
しかーーーし。
私たちがときに苦しむのは、過去の辛い体験やトラウマのせいではありません。自我の語るそうした物語が、実は嘘である、と心の底でわかっているから、苦しいんです。
本物じゃないものを本気にしようとしているから苦しい。
それが、自我の物語を信じたときに感じる苦しさの正体です。
とはいえ。
私たちはときに、そうした自我の物語に酔いしれ、それを癒すことで味わえる達成感や解放感に耽溺したりします。それが悪いとは言わないし、存分に楽しめばいいと思うけど、そうやっているうちは、今この瞬間に用意されている幸せは、置き去りにされたままです。
究極の真実を言ってしまえば、私たちが生きている「この世」も、いると思っている「自分」も幻想です。
本当は存在していないものを、みんなで力を合わせて「存在している」ことにしているわけです。
ないものを、あるかのように認識しているのですから、それだけで、まあまあ疲れます。
ホントの究極論ですが、私たちがこの世で辛い思い・苦しい思いをするのは、本当は存在していないものを本気にしているから、です。
一方で、私たちは毎日、五感でいろんなものを見聞きし、感じ取り、体験しています。
それが「幻想だ」と言われても、即座に納得できるはずもありません。鵜呑みにする必要もありません。
そもそもこの世界は、知覚の世界です。
知覚を超えているものは体験できません。
なので、知覚を最大限有効活用して幸せに生きることを意図すれば、もうそれで充分なんですよね。
そこで大切になってくるのが、
苦しいとき、辛いときは、本当ではないものを見ている、
という理解です。
理解がなくても、試しにこの前提を採用してみることで、「では、何が本当のことなのだろうか?」という問いが心に浮かびますし、「本当のことを見てみたい、体験したい」という意図が生まれます。
こうした問いや意図は、過去の記憶についても当てはめることができます。
自分が過去に体験したと思っていること、
自分にとっては辛く苦しかったこと、
現在にも大きな影響を与えていると思えること…
そうした過去の記憶の数々に対して、
自分の記憶は本当なのだろうか?、
本当のことを見てみたい、
別の見方はできるだろうか?
といった問いを立ててみると、今まで気づいていなかったことが見えてきたり、当時「封印」してしまった自分の思いや感情に気づいたり、それこそ、自分が本当に思っていたことがわかったりします。
そうやって、今まで見逃していたことを見てとることで、過去は静かに終わっていくし、現在に影響を及ぼすこともなくなります。
このやり方の素敵なところは、単に過去を終わらせるだけではなく、今を幸せに生きるためのヒントを、同時に手に入れられることです。
実際に試してみると、「なるほど、そういうことか!」と腑に落ちる体験がやってきます。
軽い気持ちで、やってみていただければ…と思います。