いつか苦痛を味わうのではなかろうかという恐怖心をすべて免れた人は、今ここにある平安への道を見いだし、決してこの世界におびやかされることは有り得ないと確信しているのだから。
その人には自分が間違って知覚することはあるかもしれないが、訂正されないままになることは絶対にないと分かっている。
思い違いしたときにはもう一度選び、間違っていたら自分の心を変えることのできる自由がある。
学習書194課 未来を神の御手にゆだねる より・田中百合子さん訳
『奇跡のコース(A Course In Miracles)』のワークブック(学習書)に取り組んで、10年以上になります。
自分でクラスを主催するようになってからは、クラスメンバー向けに毎日の課題をメールで配信しています。毎年元旦から第一課を配信して、その年のうちにすべての課題が終わるスケジュールです。
年初から熱心に取り組む年もあれば、中だるみする年、それまで忘れていたのにある日突然熱心に取り組む年もあって、我ながら面白いです。
一方で、どんな年であっても、課題を目にしたときには必ず、ハッとするような瞬間があります。
冒頭で引用したのは、今日たまたま目にした第百九十四課の一節です。
何度も読んでいるはずなのに、「こんなこと書いてあったっけ??」と思ってしまいました。
初学者の頃は、課題に書かれていることよりも、自分のなかの疑念を信じていましたから、文字通り「気まぐれ」に取り組んでいました。当時は、コースの文章で頻繁に出てくる「気まぐれ」という表現も、ピンと来ていませんでした。
今は、実践と経験に基づく理解があります。コースのどの文章を読んでも「本当にそうですよね」とうなづくことばかり。
「気まぐれ」という表現についても、「そうとしか言いようがない」としみじみ思えます。いつのころからか、「気まぐれ」に心を放置している状態に気づき、意識的に整えることも覚えました。
学習書で今日心に響いた部分は、ほんの数分前に体験したことです。
自分のものの見方が原因で嫌な気分になっていることに気づいて、「それを採用したいのか?」と問い直していたところでした。
コースには「間違えてはいけない」とは書いてありません。むしろ、私たちが間違えるのは当然だ…くらいの勢いです。
と同時に、「間違えたと気づいたら、訂正してもらえばいい」と繰り返し説いています。自分で頑張って訂正するのではなく、すべてを知っている存在に「訂正してもらう」。
個人的には、この世界観が大好きです。
そう言い切れるのは、何度も何度も自分の正当性を立証しようとしては「勝ったけど嫌な気分」を味わい、失望し、諦め、聖霊に委ねた結果に「気持ちよく負けた」体験を重ねてきたからです。
自分の正しさを立証するというちっぽけな「勝ち」にこだわるより、本来用意されている大喜びを受け取って「負け」を認めるほうがずっといい。
今となっては、遠い昔、自分が自分の主張を押し通すのに夢中だったことすら忘れつつあります。
こうやって、自分に必要のない想念はいつの間にか消え去っていくのだと思います。
一方で私は、コースの教師でもあるので、アイタタタ…な体験を聖霊に再利用してもらうという楽しみを知っています。
あらゆる体験を完全に忘れ去ってしまわないうちに書きとめておくのは、聖霊リサイクルショップに、要らなくなった体験を持ち込む行為だと思っています。
そうやって持ち込んだ体験が、どなたにどう届くのかはわかりませんが、きっと「うまいことやってくれる」と信頼しています。
こんなふうに考えられるようになったのも、聖霊の訂正の賜物、だと思います。
最後にもう一度、今日の課題で一番響いた部分を引用しておきます。
その人には自分が間違って知覚することはあるかもしれないが、訂正されないままになることは絶対にないと分かっている。
思い違いしたときにはもう一度選び、間違っていたら自分の心を変えることのできる自由がある。
---------
私は、田中百合子さん訳『奇跡の道』で、奇跡のコースに取り組んでいます。
興味がおありの方は、Amazonで電子書籍版を入手できます。2000ページを超える書籍なので電子版がおすすめです。