いい意味であれ、よくない意味であれ、誰かがやってこと、誰かが言ったことに心が反応しているのに気づいたら、
この人はそうなんだね。
私は、どうしようか?
と言ってみましょう。
心のなかで言うだけでもいいし、声に出せばなおいいです。
この言葉を「差し込む」と、一瞬で心は正気に戻ります。
「差し込む」という感覚が、肝です。
心穏やかでいられないときは、正解争いが起きている。
他の誰かがやってこと、他の誰かが言ったことに反応して、あれこれ考えたり、心が穏やかでいられなっているときはたいてい、心のなかで正解争いが起きています。
要は、その誰かと自分の、どちらが正しいのか、延々と考えているわけです。
どちらが悪いのかを延々と考えている場合もあります。
本当は、誰が悪者か?をはっきりさせたくて、考えているのに、誰かを悪者にしたくない…という思いも絡んできて、話がますます面倒くさくなってる場合もあるでしょう。
心の観察に慣れていない人は、こういうことが起きている、と認識できないかもしれません。
正解争いの先に幸せはない。
こうした正解争い、悪者探しは、自分の心のなかだけでなく、人の集まる場所や世間では日常的に起きています。
私たちの心には、悪いところ探しをする機能が標準装備されているので、心を野放しにすると自然に悪いところ探しがはじまるんですよね。
これは万人に共通の仕組みなので、仕方ありません。
一方で、そうした正解争いや悪者探しの先に、本当の幸せはありません。
正解争いや悪者探しにどっぷりハマっているときは、結論を出せばスッキリするはず!!!と思い込んでいます。
しかし、冷静に考えたら、未来永劫変わらない絶対的な正解はないんです。
現実的には、期間限定での正解はあるし、期間限定での正義もあります。いったん、その正解や正義に合わせて、動くべきときもありますよね。
でもそれは、絶対に変えちゃいけない正解ではないし、永遠の正義ではないんです。
だから、一度決めた正解や正義を変えること、正解や正義が変わったことに文句をいっても仕方ない。
最終的に、正解や正義を軸にもの考えている限り、自分もみんなも、心の底から幸せにはなれないんですよね。
このことをひとまず受け入れて、正解や正義を諦められるかどうかが、実は一番大切だったりします。
正解争いの外に出ると、自分の心に目が向く。
心の仕組みを復習したところで、今日の練習メニューです。
この人はそうなんだね。
私は、どうしようか?
この言葉を「差し込む」ことで、正解や正義を争う世界から、すっと外に出られます。
同時に、人のことはさておき、自分はどうしようか?というスタンスが整います。
つまり、自分がどうしたいのかに、目が向くわけです。
こうなるともはや、「この人」は、正解や正義を争う相手ではなくなります。
むしろ、自分の心に向き合うきっかけをくれた、ありがたい存在、
貴重なきっかけをくれた人に変わります。
いろんな場面でやってみましょう。
心の仕組みがよくわかっていて、コソ練に慣れている人であれば、なるほど!と腑に落ちるかと思います。
ここまでの話を聞いて、なんかピンとこない人は、とにかくやってみましょう。
日常の、ほんの些細なことでよいので、少しでも心が揺れたなと感じたタイミングで、
この人はそうなんだね。
私は、どうしようか?
を「差し込んで」みます。
メディアやネットのニュースを見ながら、
この人はそうなんだね。
私は、どうしようか?
と言ってみるのもよさそうです。
意識のフォーカスがすっと切り替わるのが感じられたら、上出来です。
この練習メニューは、思考や感情がグルグルするときにも使えますし、自分らしい生き方を育てていくプロセスでも使えます。
今、大きな悩みや混乱がない人はぜひ、自分らしい幸せな生き方を育てるために使ってみてください。
自分らしい生き方を育てる、という意図を持つと、この練習メニューが相当パワフルであることが実感できると思います。
今日の練習メニュー
この人はそうなんだね。
自分は、どうしようか?
こんなときにつかえます。
- 他の誰かのいったこと・やったことに心が反応しているとき
- 心のなかで、正解争い・正解探しがおきているとき
- 他の人の生き方を参考にしながら、自分の生き方を問い直したいとき
ここまでのおつきあい、ありがとうございました。